■□■ petty cash book.6 ■□■ | |
6ページ目 中学生になり大人街道まっしぐらのヨシヤ少年は、もう小学生の時みたいに月収の半分をカップラーメンに使ったりはしない。 拾ったお金を含めた有り金全部でプラモデルを買ったりすることもない。 それどころか、お小遣いを何に使うわけでもなく、月収の2倍から3倍以上の金額がお財布の中に残ったままである。 何なんだろうか、この変わりようは? 中学の先輩たちは、声も低くて背も高くて、何だか大人に見える。 俺も、もう、プラモデルなんて子供っぽくてやってらんない。 かと言って、他にハマるものもない。 中学って、思ってたより楽しくない。ダルい。面倒くさい。 ヤンキーの先輩たち怖いし。部活もけっこうキツいし。 「何かおもしろいことないかなぁ・・・」なんて思いながらも、時は淡々と過ぎていく。 彼が音楽と出会うまで、もう少し。 | |
1回書いてから、グシャグシャっと消している。ちなみに、5月5日は前のページからの続きだ。 母にもらった¥230、こどもまつりのおつり¥220、シャープペンのしん¥100、 次のページに行ってシャープのシン¥100・・・あれ? 前のページに書いたことをもう1回書いてしまった。 全部書く前に思い出せ! |
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5月5日 10円みっけた プラス\10 | |
結構、お金を拾うことが多いような気がする。 コツを教えて欲しい。 |
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5月15日 おつり プラス¥800 | |
黄緑の色えんぴつで書いている。 色が微妙すぎて読めない。 本人もそう思ったらしく、残高は青い色えんぴつで書いている。 こちらは芯が削っていなかったために太すぎて読めない。 だから、その上から更に黒い鉛筆でなぞってみた。 だがしかし、ここで、あろうことか数字を間違えてしまい、それをむりやり修正。 もう、ぐだぐだ。 |
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5月11日 5円ひろった プラス¥5 | |
また拾ってる。 |
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5月25日 コイン マイナス¥2475 | |
コインというのは、何だろうか。 昭和32年製の5円玉を1000円で買うとか、そういう趣味があったとも思えないから、 きっとゲームセンターのメダルのことだろう。 それにしてもすごい使いっぷりである。 とはいえ、ギャンブル(?)もこの位だったらまだ可愛いものだ。 彼がこの後の人生でギャンブルに使ったお金は計り知れないのだから。 |
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6月1日 なぜか50円〜 プラス¥50 | |
3ページ目に続き、2度目の登場の「なぜか」というフレーズ。 何故50円があったのかを知っているのはこの世でサトウヨシヤ本人だけだ。 どうにか思い出してもらいたいものである。 |
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6月11日 ボーナス プラス¥1000 | |
父カツオのボーナス支給日なのだろう。 サトウヨシヤ少年も1ヶ月分の収入を得ている。 マンモスうれぴー |
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6月22日 フィルム マイナス¥480 | |
写真。 ちょっと趣味っぽいものが現れた。 この頃は何を撮っていたのであろうか。 |
■□■サトウヨシヤ・本人解説 ■□■ |
失敬な! エミールよ、オレをなめるな。 中学校にあがったばかりの僕の趣味はカメラとコイン収集だった。 なんて高貴な趣味をお持ちで!と膝をつき3回言って欲しい。 中学校に入るとまず僕は背を伸ばしたいと考える。 理想の男性像アンケートに必ず長身は出てくるからだ。 来るべき楽しい人生を円滑に暮らしていくためにはせめて人並みの身長は必要だ。 当時僕は前から5番目位をいつもうろうろしている感じで、背が低い方だった。 近所の2つ上のお姉さんにその胸の内を告白したところ、 「じゃぁバレー部入ればいいじゃん!背も伸びるしアタシもいるじゃん!それでいいじゃん!」と言われ、 <それもそうだな、あれだけ毎日飛んでいれば背も伸びるはずだし先輩にやられそうになったときも助けてもらえるかも> なんて単純に思い、晴れてバレーボール部に入部したのである。 (後になってわかることだが女子と男子は全くの別練習なのでアタシがいたって何の役にも立たなかったのだが、、、) それまで少年野球をやっていた僕はバレーボールというスポーツのルールも知らなかったのだが、 野球は厳しそうだし、バスケはスカシた感じだったし、卓球は暗そうだし、 テニスは爽やか過ぎるし、剣道は臭そうだし、サッカーは不良の吹きだまりだったし、、、。(あくまで当時の僕の中学校のイメージ) 今、考えればバレーだってユニフォームとかダサイし結構いかがなものかと思うのだが、決定してしまったことはしょうがない。 当時のノリと言うものを尊重するしかない。 しかし選び抜いたのにもかかわらずこれは大失敗だった。 そのバレー部の内情はたいして強くもないくせにかなりの封建社会で大変厳しいものだったのだ。 ありとあらゆる種類のシゴキと、正月以外毎日の練習、ここでは決して書けない恥ずかしい行為の強要、、、。 日本は徴兵制がないから男が甘っちょろいとかよく言われるが僕は3年間この部をやり通したことで以後何も怖いものが無くなった。 まず礼儀は身だしなみから始まる。 バレー部員は丸坊主が鉄則。 しかも野球部に丸坊主具合を負けたくないと言う理由だけでうちの部は3厘刈り。 3厘がどれほど短い髪の毛で構成されているかあなたはご存じだろうか? いわゆる丸坊主というのは3分が基本である。 そこからさらに10分の1の短かさまでそり込む。 正直、地球より青い。 むしろそこに地球があるのだろう。 服がマジックテープの原理で引っかかる。 誰に会っても笑われ、70%の確率でマルコメと言われる。 そして悲しいことに西洋の衣服がどうも似合わない。 オレは一体どうしたらいいのだ? 何のためにバレー部に入ったのか。 長身になって女にもてたいからだったのではなかったのか? これではミイラ取りがミイラだ。 そして礼儀の基本、挨拶。 例えば廊下の端から反対の廊下の端にいる先輩を見つけたら「ちわっす!」と聞こえるように挨拶。 それが校庭の端から端でも同じだ。 特にうちの中学校は東京で一番校庭がデカいので参った。 あまりのデカさにセスナが墜落したくらいだ。(いやマジで) とにかく目に先輩の姿を確認次第聞こえるように挨拶。 もしそれを怠った場合もちろんボコボコにされる。 「ちわっす!」これを大声でやると当然遠くの先輩までの間にいた人らが全員振り返る。 とても恥ずかしい。 しかし先輩はご満悦だ。 そして僕が一番嫌いだった練習がバレー部独自の資本主義イズムなランニング。 ルールは全員でバカでかい校舎の周りをせーので走り出しトップでゴールの人はあがり。 単純明快なルールだ。 一番早い人は1周で終了、ビリの人は20周はくだらない。 一番最悪なのはゴール直前で競って負けたときだ。 最後の力を振り絞って負けた体でまた走らなければならない。 こうなると競輪なみの駆け引きも必要になってくる。 みんな必死のだましあいだ。 この時ばかりは先輩もクソもない。 僕はマラソンが大嫌いでとても苦手だったので勝てそうなヤツだけになるまでたらたら走って力を温存した。 これでどうにか20周以上はまぬがれたのだがこれはホントつらかった。 今は膝に良くないと禁止になってるウサギ跳びや空気椅子、先輩をおぶっての短距離レース、 異常に近距離から打たれた球のレシーブ練習など、つらく非効率的な練習は数えたらきりがない。 生まれ変わったら2度とあのバレー部には入らないだろうが、当時は部活とはそんなもんかと思っていたのも事実だ。 そうでなければ続くわけがない。 しかしそんなことに耐えた僕を神様はちゃんと見ていてくれたようで、僕の身長はニョキニョキ延び、それは3年間で30cmを越えた。 憧れの長身とまではいかないがどうにか高校生になるまでは人並みになったわけだ。 目標は達成された。 ならば良しとしようじゃないか、前向き風の自分を作り上げるのだ。 僕の中学は、“部活”は任意で入るのだが“クラブ”は授業の一環として強制的に選択していかなくてはならない。 そこで選んだのが写真クラブだった。 当時父カツオがカメラマン(当時そう思っていただけで実は新聞社の印刷業務だった)をしていたので家にゴツッとした一眼レフがあったし、なぜか写真集なんかも家にたくさんあり(大体はベトナム戦争の写真集、、、)よくパラパラと眺めていたこともある。 しかし一番の理由は担当の先生が学内で一番弱い先生だったからだ。 その先生の理科の授業のときは誰も黒板を見ようともせずただの自由時間のように過ごしていた。 そしてその先生は叱ることもあきらめ、ただ黙々と授業を進めるのだった。 たまに授業がない昼休みに愛用のクラシカルな二眼レフで校庭の花や、 「オレを撮ってくれ!」という親父みたいな生徒をおずおずと取っているような先生だった。 しかしクラブのときの先生は目が違った。 カメラの話になると話が止まらない。 しかもいつも授業をほぼボイコットしている僕らを無視せず丁寧親切にカメラの技術と写真の素晴らしさを伝えようとしていた。 僕はこの先生が少し好きになり、理科の授業もなるべく耳を傾けるようにした。 僕が好んで撮った写真2種類だけだった。 この2種類のショットのみをバカみたいに好んで撮った。 ひとつは<雨の日の夜に固定したカメラで長めのシャッター速度>で撮る幹線道路や電車の写真。 これは流れる光がとても綺麗でサイケデリックな仕上がりになる。 その時々の車の量やライトの質感により写すたびに違う写真が撮れる。 わざわざ雨の日に撮ったのはその方が道が濡れてより黒さが増し一層光とのコントラスが際立ってくるからだ。 もうひとつは<人気のない澄んだ早朝の光の中>で撮る神社の写真。 これは理由がわからないが家の近くの神社を初めて取ったときの写真の出来が良かったのかもしれない。 静かに佇む白木の神社は何か厳かな気分に僕をさせてくれたのだ。 そして忙しくつらいバレー部の練習を縫うように早朝や雨の日の夜に写真をぶらさげて外に出た。 それからずっと僕は父カツオから譲り受けた古い一眼レフで写真を撮り続けている。 2回ほど修理に出したがまだまだ健在だ。 機能が単純なマシンほど長持ちする。 ここら辺はアナログ機器の良いところなのだろう。 もちろんデジカメには出ない質感も見逃せない。 それは音楽の録音機材にしてもそうだが、まだまだ現時点でデジタルは人間の琴線に触れるアナログの質感を追い越してはいないのだなと感じる。 もちろんお手軽さと多機能という面はお手上げだし未来的に無くなっていくこともあるだろうが、、、。 制約された中で物を作り上げていく頭脳の動かし方自体が今後変わっていってしまった時の世界はどんな風なんだろう。 一概に<デジデジになって殺伐した社会>とかそういう古いステレオタイプな物言いはしたくないが、出来ることならうまく共存していく方向に向かって欲しい。 まぁ写真技術の難しいことは今でもよくわからないが良い写真が撮れると良い曲を書けた時と同じくらいうれしいのは同じだ。 写真で金はもらえないが(もらうつもりも滅相ないが)2枚のCDジャケットで僕の写真が使われている。 素人としては最高にうれしい! 暇な人は探してみてくださいね。 ●NON-POLY<golden folkdanser>(中ジャケ。光具合の趣味がこの頃のまま止まっている、、、もともとオレはしつこいのだ) ●SWINGING POPSICLE<E,Pオレンジ/遠い空>(外ジャケ、表1。うちのかわいいクロネコハルタがモモタ兄ちゃんの背中に顔をのっけている) そしてもうひとつの趣味がエミールでさえ考え付かなかった<ザ・コイン収集>だ! 僕はもともとお金が好きだ。 ここで間違わないでもらいたいのは金の亡者のようにあらゆる手を使って金を稼ぐということではなく、お金という存在が好きなのだ。 ひとり立ち読みしながら昔の貨幣や各国の様ような美しくデザインされた貨幣写真集をうっとりしながら眺めていたものだ。 ある日そんな僕は父カツオに貨幣展覧会に連れて行ってもらった。 そこで売店で売っていた日本の貨幣が年代順に納めていけるファイリングブックを買ってもらった。 カツオは「集めてもお金が無い時に使っちゃダメだぞ」と言った。 僕はそんなつもりは毛頭ないので「それは心外だ!それが子供に向かって言うせりふなのか?オレがそんな男に見えるのか?」と涙ながらに反論した。 カツオはニヤニヤしながらじゃぁ頑張って集めてみな、と言ってそれを買ってくれたのだ。 さぁここから人間誰でも潜在意識に潜む収集癖回路が開け放たれた! まだ何も入っていないファイリングブックを埋めるために僕はあらゆる手を使った。 まず家にあるコインをかき集め無断で収集。 前にも書いた多摩川大洪水(<GUFFAW-petty cash book-P・5再開>を参照)のための募金も全て念入りに仕分けされ収集。 足りないものはリストアップし友達に探してもらい収集。 どうしてもない古銭等はコイン屋でオヤジと交渉しながら入手。 さらに別収集として頭の狂った僕はギザ10(ギザ付き10円)を友達から20円で買っていた。 校内ではあいつにギザ10持って行くと倍で買ってくれるらしいということになり知らないヤツまでが集めて持ってくるようになった。 それに外国の貨幣。 これも旅行に行く友達や母親のつてを最大限に利用して持ってきてもらった。 そして集まったコインを床に並べうっとりと眺めていた。 しかしもうお分かりだと思うが、苦労して集めた貨幣も高校生になり何かとお金が必要になるに従いファイリングブックから財布の中へと消えていくこととなる。 (僕の高校は大ギャンブル高校で支払いにはクールなのだ。1週間の猶予がありそこで払えないヤツは学校をサボり早朝の高田馬場に並ぶ事になる。そして日雇い斡旋のバンに乗せられドカタで稼ぐのだ) カードやマージャンで負けた金を支払うために古銭はコイン屋に売られ(ギザ10はあたりまえのようにそんな物はいらんと断られた)結局残ったのは安コインだけが飾られた虫食い状態のファイリングブックだった。 カツオよ、あなたの言うことは正しかった。 オレは所詮そんな男なのさ。 その場限りのダメな男なのさ。 もともと収集癖なんてものも僕の中にはなかったのだろう。 集まってきたことに満足しそこからさらに突き詰めようとはせず最後には飽きてしまった。 しかもそれが使えるお金なのでやめる事にも躊躇は無しだ。 世界各国の貨幣と大量のギザ10は売ることも出来ずに今も引越しのたびに移動されていく。 それを見るたびダメな自分を再認識しなくてはならない羽目になるので、 次の引越しが来るまで新しい部屋の見えない一番奥にしまいこまれたのだ。 今年の正月実家で両親と妹家族と過ごしたときにそのファイリングブックが出てきた。 何も入っていないファイリングブックなぞ用無しとこれだけは実家に置きっぱなしだったのだ。 それを見た甥っ子(今年小学校入学)の城之進があざとく見つけた。 興味を示したジョーは欲しいとねだった。 この男は妹夫婦によく愚痴を言われるのだがズルっがしこいところが当時の僕にそっくりなのだそうだ。 まぁ僕としてはそんな言われようは心外なのだが、、、。 彼の手はこんな感じだ。 去年用事で保育園に迎えにいけない妹の為に母アツコが迎えに行った時のこと。 保育園から家までの道がわからないアツコの手を引き家に向かうはずが、それ良いことにいきつけのおもちゃ屋に連れて行ったそうだ。 「ねぇババ、ボクこれとこれとこれが欲しいんだ」と4、5個の電車の模型を手に取りカワイコぶってのたまわった。 もちろんそんな手に乗るアツコではないが「じゃぁ3つでいいから」じゃ、「2つでいいから!」ダメだというと「じゃぁ仕方ないな、1つでいいから、ボクのこと好きでしょ?」と言ったらしい。 いやぁ悪いがオレはそんな物言いはしたことがない。 この男はきっとオレを上回る男になりそうな予感がする。 しかも結局ツワモノのアツコを折れさせ電車をゲットしたのだ。 したたかだ。 やるとしか言いようがない。 そんな僕の血を引くジョーがこのファイリングブックを欲しいという。 「ねぇいいでしょヨッチャン、ボク、ちゃんとあつめるからさぁ、これちょうだいよ」 僕は一呼吸おいて 「ちゃんと出来るか?集めてもお金が無い時に使っちゃダメだぞ」 と言った。 そんな僕らを隣で見ていた妹は絶対無理と吐き捨て、 カツオは数の子をポリポリ食べながらニヤニヤしていたのだった。 GUFFAW TOP |